『ハウス・オブ・ヤマナカ』

科学ノンフィクションを除いて、日本のノンフィクションは、世界的に見て非常に優れていると思う。

一般書であっても、取材によって得られた事実や史料の扱い方が誠実で、読者が作品の背後にあるそれらの事実まで、リアルに届くことができるからだ。

乱暴な言い方だが、海外ノンフィクションでは、それらの史料そのものが持つ魅力や事実の力を、著者自身の優れた(と著者自身が思っている)レトリックの中に埋没させたり、本を一貫して流れる主張を補完する材料にしてしまったりすることが多い。読んでいて、「この著者の勝ち誇ったような、断定的な一文を支える事実は何なのか、詳しく知りたい」などと思ってしまうことがよくあるのだ。

もちろん、海外のノンフィクションでは、注を手がかりに調べたり、著者のウェブサイトなどを見ることでその一次史料に至ることができるわけだが、日本の優れたノンフィクションでは、作品そのものを読む過程において、史料の魅力が素直に滲み出てくることが多い。

それは、日本のノンフィクションの文体が、著者が全面に出すぎず、事実を冷静に追う、抑制された文体を持つことが多いからだとも言えるだろう。

科学ノンフィクションでは、逆のこの点が弱点になっているのかもしれない。高度な証明や実験結果を可能な限りに正確に引用しても一般の読者には難しすぎて退屈なだけだ。「正確ではないかも知れないが、凡そこんな感じだよ」と、著者が自我と個性を出して、断定的にひとつの魅惑的な物語を作ってしまったほうが、読者にとって魅力的な本となる。


話が逸れた。いずれにしろ、日本の優れたノンフィクションの多くは、事実や史料の魅力を伝えてくれるものが多い。

朽木ゆり子さんの『ハウス・オブ・ヤマナカ』は、まさに世界に誇るべき、秀逸な日本のノンフィクションの見本のような作品だと思う。

ハウス・オブ・ヤマナカ―東洋の至宝を欧米に売った美術商

ハウス・オブ・ヤマナカ―東洋の至宝を欧米に売った美術商


まず序章で示されるニューヨークメトロポリタン美術館所蔵の六曲一雙の屏風の物語。実は、この屏風は、ある時期に左雙と右雙はバラバラとなり、まったく違う時期に、違うルートでふたたびひとつとなった。

教科書でもおなじみのフェノロサ岡倉天心、美術蒐集家のハヴマイヤーやフーリア、そして本書の主役である山中定次郎らが登場して語られる、小さな、そして象徴的な物語が、第一章以降の、かつて世界中に知られ、忽然と消え、忘れ去られた東洋美術商・山中商会の大きな盛衰史へと繋がる。そして、当時の手紙や会計記録などの一次史料から、江戸時代末期から明治、そして昭和に至る世界的な日本美術ブームと、美術品取引の実体が活写される。

そのさまは、教科書で習っていたような、歴史の向こうに閉じ込められた古臭いものではなく、カネの動きや駆け引きなど、まさに今世界で行われているさまざまな抜き差しならない経済上の取引同様のリアルさで迫ってくる。そしてそのまま、一気に最後まで読ませるのだ。実はそのパーフェクトさゆえ、書評として内容について語るべきことがむしろ少ない。(ちょっとずるい言い方かも知れないが)、歴史に揉まれ、消えていった山中商会と、当時の東洋美術市場の雰囲気を、すぐに本書を買って読み、体感してほしい、とだけ書いておく。特に歴史的経緯や日米関係については、こちらの書評も是非見てほしい。
 
その代わり、冒頭に書いた、史料について言及したい。著者は、本書の主役、山中定次郎の唯一の自伝『山中定次郎伝』を、「英雄譚めいた二次史料」として重視せず、アメリカ公文書館にある、アメリカ政府が戦時中に山中商会から接収した87箱の史料やフーリアの全美術品購入の記録(すなわち領収書や請求書、価格表、手紙の山)をはじめとする美術館や資料館、コレクターたちの購入記録を調査して山中商会と定次郎のアメリカでの活動を明らかにしてゆく。

その調査力自体がすごいものだが、その史料をだらだらと作品内で明かしてゆくようなことは決してせず、厳しく取捨選択し、作品として再構築する、作品のために自己を律する力も素晴らしいのだ。加えて、美術品の価格が現代の貨幣価値に換算してどれぐらいになるかを示し、日本語の書類や書簡は現代仮名遣いに改めるなどして読みやすくすることで、最初から最後まですーっと軽やかに読むことができる一体感を作品に与えている。細かいことのようだが、読者や作品自体の完成度のためにこういうことができる作家は意外と少ない。
 
人は苦労をすると、その(読者にとっては面白くもなんともない)経緯を書きたがる(特に最近、大きな賞を受賞したようなな若手ノンフィクション作家にその傾向が強い気がする)。しかしながら著者は、膨大な時間を費やして圧倒的な史料と格闘したうえで、淡々と、涼しい顔で書いているような印象だ。

そして、素直で平易で美しい文体。地面の深いところまで根を張りつつ、そのことを感じさせぬようにまっすぐに伸びた植物を見るような心地良さがある。言うまでもなく、そこに実った果実には充実感が漲り、その味わいは深く透明で、読み手を存分に楽しませてくれる。