『かぜの科学』

 (副作用を伴いつつ)症状を和らげる薬はあっても、風邪を治す薬は今のところない。昨年出た『代替医療のトリック』という本には、エキナセアというハーブに、ほぼ唯一、少し効果がある、というエビデンスが見いだせるとあったはずだが、本書ではより改良された最新の研究では効果がない、と断じている。 

かぜの科学―もっとも身近な病の生態

かぜの科学―もっとも身近な病の生態

 
その意味で、現在の風邪薬も、本書でも触れられているような、ギリシア時代のネズミの鼻にキスをする(たしかに喉の痛みなど忘れそうな体験だ)、植民地時代のアメリカの、冷たい水に足をつける(私がラテンアメリカに行ったとき、人々はまだこの治療法を試みていて、熱帯熱という重いマラリアに罹った友人は、マラリアの熱と凍るような足の冷たさの両方に耐えなければならなかった)、1920年代には有毒な塩素ガスを噴射した小部屋に入る、といった治療法と、さして変わらないのだ。人は、喉のイガイガや痛み、くしゃみ、咳き、頭痛、熱、倦怠感などに耐えつつ、平癒するのを待つしかない。

平癒するゆえ、風邪は軽く見られるが、本書によれば、アメリカ人は年間10億回風邪をひき、欠勤日数は数億日、経済損失は600億ドル、子供たちは1億8900万日も学校を休み、人は一生のうち、まる一年は風邪で寝ていることになる。規模としては大きな損失を人類に与えている。

著者曰く、風邪ウイルスは世界でもっと成功を収めたヒト病原体、なのだそうだ。風邪ウイルスはあらゆる場所にいる。児童公園の遊具、バスの肘掛け、病院 銀行、保育施設、学校 ホテル、飛行機、そして家庭で、人を待ち構えている。
ちなみに家庭で一番清潔な場所は便座だそうだ。曰く、サラダを作るなら、まな板の上より便座の上が適しているという。

馴染み深いゆえ、さまざまな誤解がある。よく体冷えたから風邪になった、などと言うが相関関係はない。冬に風邪を引くのは、湿度が風邪ウイルスに適しているのと、人々が屋内で過ごすことが多いからだ。

またウイルスゆえに殺菌、減菌剤は効かず、殺菌効果を謳った石鹸も、風邪には普通の石鹸と同程度にしか効果がない。

意外と知らない人が多いのが、抗生物質が効かないこと。効かないばかりか、安易に飲み続ければ、胃腸に負担をかけ、アレルギー反応を起こし、さらにいずれは、抗生物質耐性菌を生み出したりする。

そして、免疫力を高めれば風邪を引かない、というのもまったくの間違い。くしゃみ、鼻水、鼻づまり、喉の痛み、咳、これらは、ウイルスによって攻撃を受け、体がダメージを受けて現れていると考えがちだが、実はウイルスに対する身体反応、ウイルスをやっつける過程でふだんは眠っている体のプロセスが活性化された結果だ。すなわち、免疫力を高めるほど、よりひどい症状に悩まされることになる。幸いなことに、「免疫力を高める」と謳った怪しげな商品の多くには実際の効果がないため、金銭的損失以外に実害はあまりないが、本書には、風邪のときに免疫強化剤を飲み、最悪の体験をした男の例が載っている。

風邪をなんとかやっつけよう、という人の闘いと研究を語りつつも、本書は、風邪の有用性も訴える。そもそも人の体は、無数の菌や微生物で構成される生態系のようなもの、新参の風邪ウイルスもその仲間に入ろうとしていて、まだうまくいっていないだけ、なんていう心優しき主張は好もしいばかりか、「ウイルスは生物圏の支配的な実体で、地球でもっとも動的な遺伝因子」だという、新たな、巨視的な視点をも提供しくれる。
風邪ウイルスを中心に据えて世界を見れば、この地球はまったく違ったふうにみえるに違いない。

というわけで、実は今少し風邪気味。にもかかわらず、風邪ウイルスを愛し始めている自分がいる。とりあえず、1772年版の『家庭の医学』(ウイリアム・バカン著)に載っているという素敵な治療法、「ベッドへ行き、ベッドの足側に帽子をかける。そして帽子が二つに見えるようになるまで酒を飲む」を試してみたい。

妄想かもしれない日本の歴史

きっかけは、『信長革命』。第一回本のキュレーター勉強会で、東えりかさんが「一押し」として紹介して下さって読むが、なるほど面白い。

桶狭間の戦いの奇襲や長篠の戦いでの鉄砲三段撃ちなどのいくさの天才ぶりや、エキセントリックな気性など、個人としての資質や性格が描かれてきたこれまでの信長のイメージとは違い、「まつりごと」の総合的な形を「安土幕府」として提示した、統治するものとしての信長を描いた作品だ。

信長革命 「安土幕府」の衝撃 (角川選書)

信長革命 「安土幕府」の衝撃 (角川選書)

で、一気に歴史に興味が傾いて、サザンシアターで行われた、『閃け!棋士に挑むコンピュータ』の著者と開発者によるサイエンス・カフェを見に行ったとき、待ち時間に紀伊國屋書店新宿南店で見つけたのが、こちら。

購入して読んでみると、なんと偶然にも、これが『信長革命』の著者への批判が書かれている本だった。ちょっと地雷を踏んだ感じ。

内容は、基本的には「最も信頼のおける史料を見れば、戦国時代のいくつかの逸話や歴史上の陰謀論は嘘」で、"桶狭間の戦いも普通の戦略と偶然で勝った" "鉄砲三段撃ちも武田騎馬軍団もなかった” "本能寺の変陰謀論などとんでもない"  というような話になっている。

おそらく市井の歴史家として学者の世界から無視されたり、蔑まれたりしたことが多々あったことを感じさせる、恨み節めいた負の雰囲気を漂わせる著者の語り口はそんなに心地良いものではないが、その内容は、素人である私には、おおむね合理的に感じる本だった。

しかし、読みながら思ったのは、そうやって歴史の正しさを検証していくと、ずいぶん歴史はつまらなくなってしまうな、ということ。「信長って結構普通の人だったんだよ」と言われるより、「実はすごい革命家だったんだ」と言われたほうが、私のような読み手には楽しい。そう、実は人は、それが歴史的真実かどうかには、あまり興味がなかったりするのだ。だからこそ、司馬遼太郎は絶大な支持を集めるわけである。

桶狭間の闘いや武田騎馬隊と鉄砲三段撃ちなどが「正しい歴史」によって否定されるなら、逆にどうして、そういう説が生まれ、人々が支持し、廃れたり、広がったりしていったのか。そこに歴史のなかに生きる名もなき人々の心や気持ちがあるという意味では、歴史からさまざまな物語が湧き出て、消えてゆくことを追うことのほうが「歴史の真実」を探っていると言えまいか。

堺屋太一あたりが言い出し、彼が橋下徹に直接「平成の信長になれ」と大阪府知事選挙への出馬を促したた頃からだろうか、今、「革命家・信長」ブームである。正しいか、正しくないかは別にして、なぜ、そういう考えが今の時代に支持されるのか、知りたくなってくるのだ


そんなことを考えているときに出会ったのが、大学生の頃よく読んだのこの本。井上章一さんの本は久しく読んでいなかったが、相変わらず面白い(よく考えてみると、変わらず面白い、というのもすごいことだ)。

妄想かもしれない日本の歴史 (角川選書)

妄想かもしれない日本の歴史 (角川選書)

厚い知識と調査、経験から抽出された軽妙な短文の歴史エッセーであり、それこそ妄想かもしれない奇説を検証すべく、日本中を訪ね歩いた現場主義のレポート。もちろん関西人として長年鍛錬してきた、ウケる技術も相変わらず抜群である。いやー、正しさを探る歴史論争より、楽しい楽しい。

井上さんは例えば、「義経ジンギスカン」説の発展や東京の平将門の祟り伝承の変遷、西郷隆盛生存説に空海キリスト教説、全国各地の小野小町伝説などを軽やかに追う。そしてそれが生まれた背後のシステムや人々の気持ちを探り、「歴史のファンタジーに遊ぶ楽しみ」のなかから真実を見出そうとするのだ。

信長に関しては、戦いの前の「敦盛」の舞いがテレビドラマのように劇的ではなかった可能性や、安土城天守閣が宣教師経由の西洋建築であったとする説などを紹介している。

歴史の常識として語られてきたことを否定するエッセーもある。例えば、教科書で教わった、地中海のヘレニズム文化のfar eastへの帰着を示す、法隆寺の柱のふくらみ=エンタシス。
これは実は歴史学の世界では、「子どものおとぎ話」だという。しかしそのあとで、「じゃあ、どうしてその物語が生まれ、定着したの? 」と調べ出す。これについては、17年前に出された『法隆寺への精神史』で詳しく論じられているが、「一般人の歴史の常識」を否定するなら、こういうふうにやってほしいものだ。

ちなみに井上さんは、論争自体も楽しんでいる。関東史観と関西史観の対立の根にあるメンタリティ、定番の邪馬台国畿内説 vs. 九州説、さまざまな説の歴史学者たちに「政治的に配慮して」復元されたどっちつかずの三内丸山遺跡の建造物の話など……。

そして本書の白眉。それは、あのでかく腫れ上がった「きんたま」を持つ信楽焼の狸の置物の謎に迫る一編である。「たんたんたぬきの…」の俗謡から始める構成も見事で、笑えるネタもふんだんに盛り込まれている。必ず吹き出すので電車内では読まないほうがいいだろう。

ぜひとも「たぬきのきんたま」だけをテーマに井上さんに一冊の本を書いてほしい、そう思いながら読み進めば、なんとすでに一冊、日本文化とたぬきのかかわりを論じた、『狸とその世界』(朝日選書)なる本に「きんたま」にまつわる詳しい言及があるという。井上さんいわく、「大変な名著」だそう。
この本、『くう・ねる・のぐそ―自然に「愛」のお返しを』や『ダチョウ力 愛する鳥を「救世主」に変えた博士の愉快な研究生活』などに加え、新たにわれらが「本のキュレーター勉強会」座右の書となりうる可能性さえあると見た。絶版だが、ネット古書店で早速ポチっとしてしまった次第だ。

男子食堂5月号、表紙の調理とスタイリングをやりました。

男子食堂 2011年 05月号 [雑誌]

男子食堂 2011年 05月号 [雑誌]

いままで他誌の別冊扱いだった『男子食堂』。正式な創刊号。
物流の不安、紙不足、不安定な印刷所稼働という状況の中、よくぞ出してくれました。
表紙の肉じゃがの調理とスタイリングをしています。ぜひ実物を。
あと、巻頭のこの写真の調理&スタイリングも。

気になる本

一番はこれ
『ゲーデルの定理 利用と悪用の不完全ガイド』 トルケル・フランチェン著 田中一之訳
amazonにまだ上がっていないので、bk1で。
タイトルにやられました。高いけど、多分タイトル買い。そもそもゲーデル不完全性定理って、(私を含めて)よく理解してい人が多いゆえ、都合のいいように、誤った使われ方をしてる、なんてよく言いますから、そのあたりが明快になったら嬉しいです。

続いて

食の500年史

食の500年史

武道のリアル

武道のリアル

音楽史を変えた五つの発明
ハワード グッドール
白水社
売り上げランキング: 9378


ヤバい統計学

ヤバい統計学

タイトルがおもっきりアレなんですが、原書はまったく違うタイトル。こういう読者をバカにしたタイトルをつける編集者って、何なんだろう。損している。


妄想かもしれない日本の歴史 (角川選書)

妄想かもしれない日本の歴史 (角川選書)

居酒屋の定番 煮込み

居酒屋の定番 煮込み

一番心惹かれているのはやっぱりこれ。作りたい、勉強したい。


聖性の転位―一九世紀フランスに於ける宗教画の変貌

聖性の転位―一九世紀フランスに於ける宗教画の変貌

こういう本って、読むのに時間とか、精神的な余裕が必要。果たして読めるのか。


ハンバーガーの歴史 世界中でなぜここまで愛されたのか? (P‐Vine BOOKs)

ハンバーガーの歴史 世界中でなぜここまで愛されたのか? (P‐Vine BOOKs)

自分のなかでは鉄板的なジャンル。おそらく本のキュレーター勉強会の面々もチェックしているはず。


王家を継ぐものたち―現代王室サバイバル物語

王家を継ぐものたち―現代王室サバイバル物語

こちらも同上。


「絵のある」岩波文庫への招待

「絵のある」岩波文庫への招待

こういうのも、つい買ってしまう。


食べる旅 韓国むかしの味 (とんぼの本)

食べる旅 韓国むかしの味 (とんぼの本)

宮廷料理じゃない、昔からの韓国の味には非常に興味がある。名文家、平松さんの文章が読めるのは嬉しいが、料理系専門出版社の、マニアックな情報過多の本だったらよりよかったのに、という気持ちもある。


最後はこれ。

私が愛した自転車パーツ レトロサイクル必携 (CYCLO TOURIST BOOKS 2)

私が愛した自転車パーツ レトロサイクル必携 (CYCLO TOURIST BOOKS 2)

マニアックな方が、マニアックな事象について語った本が好物なので。


以上。

「ザ・インコ」の世界

3年前、私は部屋を探していた。条件は、原稿仕事もでき、キッチンが大きくて、料理教室が開け、かつ写真撮影もできること。そんな妙な条件ゆえ、部屋探しは難航したが、あるとき、不動産会社の人が、ぴったりの物件がある、と連絡してきた。

現在はまだ店が営業しているが、来月移転になるので、そのあとに入居してはどうか、という話。写真や間取り図を見ると、間口1.5間ほどで奥に細長く伸びた、かなり不思議な形をした2階建ての建物だ。オーナーはギャラリーにでもするつもりだったらしい。

で、とりあえず、営業中の店を見に行くと、そこは、インコ飼育用のグッズや餌などが所狭しと並んだ、インコファンのためのお店だった。インコ飼育の世界を垣間みるのは初体験、何やら独特の空気を感じる。

その空気感がさらに濃厚になったのは、2階を見せてもらったときだ。そこは、ふだんはかごの中で飼わざるを得ないインコを放し、そこで飼い主と存分に触れ合ってもらう空間になっていて、いわばインコ版のドッグランのようなもの。靴を消毒して薄暗い部屋入ると、そこでは、一匹のインコが枝に止まり、その飼育者とおぼしき男性とが、何やら話しかけながら、愛溢れる眼差しで、インコをじっと見ていた。

はっとしてこちらを見る男性。おたがい何も悪いことをしているわけじゃないのに、気まずさが流れる。二人きりの時間を乱してしまったことに、なんとなくいたたまれない気持ちになって、内部のチェックもそこそこにすぐに退散したが、あの空間に流れていた濃い空気感と、とめどなく慈愛の感情が溢れ出るような、あの飼い主の眼差しは、私に強烈な印象を残した。

その物件のオーナーは有名なインコの権威で、本も出しているという。最初にその名前を聞いたときは、「あのisologueの書き手が実はインコの権威?」と驚いたが、調べていると単なる同姓同名で、早速アマゾンで探すと、こんな本が出てきた。

ザ・オカメインコ (ペット・ガイド・シリーズ)
幸せなインコの育て方・暮らし方
ザ・インコ&オウム―コンパニオン・バードとの楽しい暮らし方 (ペット・ガイド・シリーズ)
インコ・ブンチョウ 手のりの小鳥楽しみ方BOOK
インコをよい子にしつける本 (ペット・ガイド・シリーズ)


いずれも「育て方、楽しみ方、暮らし方」といったタイトルで、「飼い方」ではない。そのタイトルだけでインコは仲間、友人、決して単なるペットではなく、人間が上から目線で飼ってやるようなものではない」というような主張が感じられる。そのうえ、amazonの評価がすべて☆5つ。(これは当のisologueでも指摘されていた!)インコへの愛と本への賛辞がたくさん寄せられている。

残念なことに、一昨年に「飼い方」というタイトルの本が出て、また☆もオール5ではなくなったが、それでも、コメントの数は増え、この著者のページの不思議な熱気は変わらない。

そして、その不思議な熱気の謎を解く、大変印象深い一冊の本が出版された。

『不義理なインコ』

短歌とインコの写真を組み合わせた電子書籍だ。佐々木あららの『モテる体位』『モテる死因』もあるし、電書短歌集は今後も注目かもしれない。

「かみころせ、花火にはしゃぐカップルを」インコに話しかけた午後四時


すぐ求めすぐ甘えすぐ怒りすぐ驚くオカメインコみたいに


「オハヨー」としゃべるインコと「おはよう」と返すアナタは似て非なるもの


インコ好きがインコに与える愛は、「エロス=見返りを求める愛」ではなく、「アガペ=無償の愛」だ。しかし、多くの人はただ愛を与え続けられるほどの高潔な存在ではない。だから、見返りが欲しくなる。エロスが入り込む。悶々とする。ときに「ただ愛を与える」穏やかな心境に立ち戻り、しかしまた揺れ動く。

インコ界の人たちのあの「熱」がなんとなく理解できたと同時に、この3年間、それがずっと気になっていたのは、その熱を自分が決して嫌いではないからだ、とわかった。

たぶん、この短歌という形式じゃなかったら、その複雑な心情と真情に触れるところまでいかなかったと思う。それに著者がインコに対して持つ気持ち、人にとってかなり普遍的な感情でもある。特異性と普遍性のあいだから読み手を共感させるものがビンビン飛んでくる。

というか、インコ、結構かわいいじゃないすか。オカメインコとか、ちょっと惚れつつある。例えばこれ、みてください。

ゆめみるオカメインコ


鳥関係の学者の本が妙に面白いのは「本のキュレーター勉強会」でも指摘されているところだが、同じ鳥でも少しベクトルを変えれば、まだまだ開拓の余地がありそうである。

ただ、残る謎がひとつある。なぜ、「ザ・インコ&オウム」とか、「ザ」がつくんだろう? この謎を解くには、おそらくもっともっと深く、インコの世界に潜ってゆくしかないのかもしれない。

ちなみに『不義理なインコ』はドネーションウェア。歌集が面白かったら「投げ銭」のほか、「投げ粟穂」(インコのえさになるような野菜や果物)を、ということなので、私も何かしようと思っている。

『閃け! 棋士に挑むコンピュータ』

閃け!棋士に挑むコンピュータ

閃け!棋士に挑むコンピュータ

 昨年10月、清水市代女流王将(当時)とコンピュータ将棋「あから2010」が対戦した。誰もが指摘せずにはいられない「あからのキャラクターの(別の意味での)すごさ(こちらこちらをご参考に。本書の表紙のとギャップが……)を含め、対戦当日は、twitterでも#vsComshogiのハッシュタグが大いに盛り上がり、TLに熱を帯びたtweetが次々と流れ込んできた。

 この「熱」を体感せずに、「86手であからが勝利した」という結果だけニュースで知れば、「なんだ、あからの圧勝じゃないか、コンピュータ強いな」ということでおしまいになってしまうかも知れないし、実際そういうコメントも試合後多々、ネット上で目にした。

しかし、そうではないことは、本書の第五章を読めばよくわかるだろう。戦いが持つ熱、会場の熱気、それがストレートに伝わってきて、将棋など小学生以来やったことのない私が読んでも、胸が熱くなり、息を呑み、興奮した。ずいぶん昔だが、週刊誌で仕事をしていたときには、いわゆる大きなタイトルの観戦記を何度も読んだが、ここまで熱気に溢れ、わかりやすく、スリリングな将棋の対決をめぐる記述を他に知らない。

その理由は、いくつかある。

まず、「あから」のログ、つまり、どんな行程で指し手が決められたのかが明示され、清水さんの手が、あからの予想通りだとコンピュータは「予想的中!」と言うなど(実際に言う訳じゃないが、そんなイメージ)、コンピュータ側の思考が見えることだ。実は「あから」は4つの既存のコンピュ—タ将棋ソフトが多数決で指し手を決める合議システム。そのコンピュータソフト同士が、多数決で手を選ぶ様もログからわかり、清水さんの手に対して、ソフトが4人であーだこーだ議論しているようで面白い(ちなみに、コンピュータ将棋好きだと、ログを読みながら「さすが『激指』いい手を選んでいるな」とか「『ボナンザ』だけやけに派手な手を主張していて、他のソフトに却下されている」とか、凡人には計り知れないマニアックな楽しみ方もあるらしい)。

そして対戦後の清水さんに取材をしていて、「あから」の指し手に何を感じたかも、しっかり話を聞いている。両者の思考を押さえることで、盤を挟んだ真摯な対話としての将棋をほぼ描き切っているのだ。

第五章の熱は、そのあとゆっくりと拡散してゆく。そもそもコンピュータ将棋は人工知能研究に端を発していること、そしてコンピュータに人のような知能を持たせるには、直感や閃きを持たせることが大きな課題であり、そのためには大きなブレークスルーが必要であることが示される。このあたりで、なぜ本書の表紙がヒューマノイドであるのかも、明確になってくる。

著者らは、コンピュータ将棋の開発が結局のところ「人ってなんだろう」という探求」だというベクトルを示す。それが本書の読後感を包む暖かな余韻の理由かもしれない。

『純減団体』書評

年明け早々、極めて印象深い、奇妙な本に出会ってしまった。



本の題名にもなっている「純減団体」とは、死亡数が出生数を上回り、同時に転出数が転入数を上回っている地方自治体のこと。少し大げさな言い方をすれば、住民が続々と死に、子どもは生まれず、人々が次々に出てゆき、また新たに引っ越してくる人が少ない町、という感じ。まさに廃れ寂れ、希望の見えない市町村のことだ。

日本の全市町村1844団体中、1274団体、およそ7割で人口減であり、うち1023団体、すなわち5割以上がが純減団体。単位を市町村から県に移すと、例えばもっと人口が減っている”純減県”である秋田県が、現在のペースで人口が減り続けたら2014年には、20002年に比べ人口の一割が失われてしまう。

著者は人口に関する様々な統計資料を執念を持って徹底的に調べ上げる。そして、日本のすべての市町村に関して、年齢別の人口、業態別の就業者数、出生数、転出入数などをもとに、詳細なグラフや分布図を作り上げ、人口減少の原因と多くの地方自治体が純減団体に成り下がってゆくプロセス、そして希望を見出すのが実に難しい日本の未来を明確に示してゆくのだ。

そういった大まじめな本であることを一応記した上で、この本の奇妙さについて言及したい。

まず第2章の冒頭、ちょっと長いが引用する。

読者におかれましては、まず本章を読み飛ばしてお読みいただくわけにはいかないだろうか。本章は起承転結の「承」にあたり、前章で語った内容について、その原因の構造を解説することを目的としている。(中略)しかし、ここに問題がある。面白くないのである。何せ、書いた本人が言うのだから間違いがない。面白くないどころか、多くの読者には苦痛を強いることになると筆者は確信している。(中略)しかも筆者はくどい性格であるため、これが大いに災いしているのが本章と言える。

著者の言う通り、まずは素直に読み飛ばすと、第3章の冒頭はこうだ。

大変遺憾ながら、内容のくどさと面倒な数値の解説に終始しているのは前章同様、いや、さらに磨きがかかっているのが本章であると言わざるを得ない。ここまで読み進んでいただいた読者に対して、峠はすでに越えて、ここからはなだらかな下り坂となると申し上げたいところだが、残念なことに本章こそが剣が峰となる。

章を二つも立て続けに読み飛ばすわけにもいかず、第2章に戻り、第3章まで読み進める。確かにくどい、数値がややこしい。しかし、しっかり読み込むと、地方における人口減少の、ほとんど絶望的とも言える空恐ろしい未来がまじまじと見えてくる。

さて、続く第4章の冒頭、著者は「峠を越えた」と書いていて、少しほっとするが、文章は以下のように続く。

今だから言えることは、本書において2章と3章は、言うなれば難関にして魔境とでも言うべき地帯であったということだ。読み進めるも地獄、されど、書くほうはさらに気鬱な章であった。(中略)通読いただいた読者には心よりお見舞いを申し上げて本章の検討を進めたい。

本を読んでいて著者から直接お見舞いの言葉をもらったのは初めて。もうこのあたりに来ると、こういった、著者独特の文章が気になり、むしろそちらを楽しむ気持ちになってくる。

そしていよいよ最終章、これまでの調査や推論をふまえて、著者から具体的な対策案が提示される。通常、こういった後半部は、未来語る自由さとあいまいさがあって、読み物としても面白いものになることが多いのだが、本書では、そうは問屋が卸さない。

著者の提案する「農業による地方再生」を達成するため、地方公務員の業務に、屋内圃場での農作業を加える。地域内の宅配便業者が高齢者宅に戸別訪問して野菜を販売する。採れたての野菜と、遠方から来たスーパーの野菜との味の違いがわからない住民が増えないよう食育を行う。農業技能トレーナーを育成する、などをまず提案。

そして一気に細部に入り、スターリングエンジンでのコジェネレーション設備の導入にはじまり、雨水を活用するが、ラジエータ内で目詰まりを起こさぬようフィルターを使用する。しかしフィルターは消耗品でコスト要因になるから木炭を砕いて自作するなど、徹底して細やかすぎる提案が延々と続くのだ。

その他、市町村議会の定例会を平日の夕刻や週末に変える、議員の定員を減らし議員報酬を日当にする、選挙では生体認証の投票機をレンタルで使うようにするなど、農業に関係あるの? というような行政自体の改革を細部にわたって言及したりもする。

その論法は、いわば、Aをするには、Bが必要。そのためにはCという制度にして、その制度を導入するにはDという思想を啓蒙しなきゃいけないし、あっ、それにはEをFに変えよう。ただしそうするとGという問題が出るから、それを解消するにはHが……。という感じ。そうやって自身の提案を突き詰めてゆくのだ。

ほとんど暴走とでも言うべき、徹底ぶりは一体何なんだろう。たぶん著者の性格、なのだろう。それまで日本中の村々に至るまでの統計調査に費やして来たエネルギーを、今度は提示する対策案にすべて注ぎ込んだということか。

ここまで来ると、もはや著者の(私にとっては)実に愛すべき、くどい人柄と、調査、執筆への執着と没頭ぶりを堪能することこそが、本書を読み進める楽しみとなる。本書はいわば、一人の男が、日本中の市町村の人口データベースを構築し、数値の意味を理解し、その構造を読み解こうと思い立ち、徒手空拳で膨大な統計資料に立ち向かい、それに身を捧げた軌跡なのだ。

ちなみにそんな彼の前に立ちはだかったのは平成の市町村大合併。データの継続性が断ち切られ、彼にとってほとんど呆然とする事態だったに違いない。それでも挫けず、持ち前の執着心と厚生労働省の人口動態調査の担当者をはじめ、各省庁、地方自治体への電話攻勢で、難局を乗り切る。おそらく、数十回では済まない彼の電話に対応し続けた各省庁の担当者も、この本の出版は感慨深く、また、これで電話がかかってこなくなるであろうことにほっとしていることだろう。

若干茶化した風な書き方になってしまったが、彼の努力は敬意に値し、データベースは有用で、また、地方の現状にかかわる分析と、時間的猶予は10年程度しか残されていないという予測は、おそらく間違いないものと思える。日本の未来の深刻さをデータで示した本書が、出版される意義のある本であることは、強調しておきたい。

誰もが読んで面白い本ではないので、積極的にすすめはしない。しかし、人口減少や地方経済の疲弊などの専門家、ジャーナリスト、あるいはその分野に特別強い関心のある人にとっては、著者が調べ上げたデータは確実に読む価値がある。

そして、地方都市に住むゆえに、その衰退を実感すると同時に行く末に関心を持ち、なおかつ奇書マニアである人が、私以外にこの世にいるとしたら、その人にだけは、強く強くおすすめしたい一冊だ。